竹内 栖鳳  Seiho TAKEUCHI  1864~1942

元治元年(1864)11月22日京都市生まれ。本名は恒吉、号は初め棲鳳のち栖鳳、別に霞中庵。明治14年四条派の幸野楳嶺の画塾に入門。明治17年京都府画学校北宗画科に入学、20年修了。早くから画才を認められ、新古美術会展、日本青年絵画共進会展などに出品。京都府画学校、京都市立美術工芸学校で教鞭をとる。明治33年パリ万国博覧会で受賞、ヨーロッパ各地を回って翌年帰国。「棲鳳」から「栖鳳」に号を改め清新な写生的作風を展開する。画塾「竹杖会」を主宰、また明治42年に開校の京都市立絵画専門学校の教授として後進の育成に尽力。大正2年帝室技芸員、大正8年帝国美術院会員。昭和12年第1回文化勲章を受章。京都伝来の円山四条派の写生風を基礎に、大和絵や漢画の古典的手法を加え、さらに外遊後は洋風の表現をも取り入れた洗練された画境を築く。昭和17年(1942)8月23日神奈川県湯河原で歿、77歳。


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